zakkuri_zakkuri's blog

140字じゃ伝えられないことをときどきね。

今日という日ですから

アメリカでメディアの買収が話題になっていますが、やはり今日ぐらいは平和について考えたいと思って、よしなしごとを。

 

映画「風たちぬ」をまだ観にいっていませんが、総じて評価が高いようですね。休暇が取れたら観にいきたいなと思っています。毎年ワタシにとっての8月は、第二次世界大戦、日本としては日中戦争から太平洋戦争へと戦線が拡大し、ついには沖縄の悲惨な地上戦、いよいよ本土まで戦火が及び、そして原子力爆弾が投下され、無条件降伏まで至るとなる月として強く認識されています。この月ぐらいは、過去の戦争の悲惨な現実に目をむけ、私たちが自分たちの親やさらにその親の世代の尊い犠牲のもと、平和を享受しているということに思いをはせる時間を持ってもいいと思っています。

 

「国家間の戦争」といってしまうと、人の想像力には遠く、また当時の政治的状況、外交、さまざまな要因も鑑みて、「人のレベル」での議論や考察はしにくいと思います。でも戦争をするのは人です。人と人が国家の名の元に憎しみあい殺しあう。それだけのことです。人と人とが憎しみあうから、戦争のあとに残るものが悲惨で、そして傷も大きいのです。国家は再建します。でも人の心は簡単には再建できない。

ただ私が等身大の感情として「平和」ということを考えるときに、常に思うのは崩れてしまった人間同士の感情、「憎しみの連鎖」をどのようにすれば絶つことが出来るかというその1点です。

 

戦争の結果は、加害者・被害者双方に言葉にも表せない複雑な感情を生みます。被害者は加害者に対し殺してしまいたいほどの憎悪を抱き、加害者は謝罪とその保障よりほかに解決の手段がないとしか考えられないでしょう。戦争が悲惨なのは、この加害者・被害者の関係性がお互いに死ぬまで心の中にしこりを残し、時には加害者であるにも拘らず、被害者への憎悪を抱き、新たな衝突を生んでしまうという悲劇にあるような気がします。

 

この「憎しみの連鎖」はどのように絶てばよいのでしょう。心の弱い私には、今はただお互いの心が癒される手段がどこにあるのかを探るだけです。被害者であれば、どこかのタイミングで加害者の罪を赦すと言い出すことができるか。加害者であれば、被害者の本当の意味で心の傷が癒えるまでの誠意をどこまで続けることができるかということ以外に想像が付きません。

ただ、もしお互いがお互いの関係性を冷静に見直し、荒れた心の状態を治し、手をとって赦しあうことができれば、これに勝る幸せはないように思います。そこには双方の間でのコミュニケーションが発生することが不可欠です。

 

実はこれ普段の人と人との付き合いでも同じですよね。だからこそ、コミュニケーションを生業としている人間こそ、率先してその行動で示さなくてはならないとも思うのです。

 

戦後50年を過ぎ戦争体験者が亡くなり、直接の戦争体験を伝えられる人間が少なくなっていったとしても、和解のきっかけとしては、この「赦しあう」と精神を持ちうるか否かというところに帰着するのではないかと思っています。

お互いに抱く憎しみの感情を解きほぐすのはそう簡単ではないことは分かります。ただそこに突破口となる「和解となる握手」、そして人間としての対話がなければなにも始まらない。それと同じように、「思想」だとか「ポリシー」だとかを超えて、心の境界線をまたぐ勇気というのが求められるのではないかと思います。そのためにどんなコミュニケーションがあるべきか?

あるときは音楽かもしれない。あるときはスポーツかもしれない。そして文化的な交流や意見の交換会かもしれない。コミュニケーションの仕事に携わる人間だからこそ、その難しさ、感情のもつれを乗り越える勇気を持たなくてはならないなとも感じますし、その手段やきっかけを日々模索していかなくてはならないとも思っています。

 

 

そして自分の仕事がそうした平和の架け橋として役立つ日が来ることも、こっそり夢見ていたりするのです。