zakkuri_zakkuri's blog

140字じゃ伝えられないことをときどきね。

【閑話休題】お盆も近いしね。

誰にでも「死ね」というくらい関係がこじれちゃって、どうしようもない人(たち)っていると思います。でもね、「死ね」って口に出しても実はなんにも解決しない。むしろ死ぬときに自分の人生って一体なんだったのだろう?と必ず思い起こすことがありますから、そのときに後悔したり、悲しんだりすることがないように生きることが大切ですよね。

 

「死ね」なんて言わなくても、人間は遅かれ早かれ死にます。死ぬときは当然一人です。おのずと死を直前にして自問自答を繰り返すことになります。恐らく人間が「死ぬ」というその問題は死の間際に自分は生きていて良かったなと思える死に様にあると思っています。

 

いい死に方ってなんだろう?

 

自分は生前に関わった人々から惜しまれつつ、涙を流され、いい人間をなくしたと悲しまれて死ぬのか。

それとも「コイツやっと死んだよ。せいせいした」と、死に際しても唾をかけられ、ざまあみろと蔑まれ、憎まれて死んでいくか。

「ああ、自分のやれることはやった、満足だ!」と死ぬにしても、必ず「あれ?これでよかったのかな?」と自答することがあると思います。

 

その解って、自分が生前に「人として」周りにどのように接して生きてきたかに拠るんだろうなと最近ぼんやりと思うようになってきました。

 

人間というのは、特定の人間だけ「いい態度」というのを「演じること」は難しい生き物です。誰かに対してひどい仕打ちをしている人間は、ほぼ間違いなく別の人間にも同じような行動を取っています。残酷ですが深い友人関係を築けている人、多くの助けてくれる友人を持つ人間と、そうでない人間の差というのは、男女を問わず年齢を重ねるごとにどんどんと開いていくものです。魅力ある人間はその人間の肩書きや容姿、お金などには関係なく人が集まりますが、そうでない人間、人との関係を大切にしない人間は持てるものを失うにしたがって、「友人と呼んでいた人」を失っていきます。離れていきます。そういう事例をいろいろと目の当たりにしてきました。

 

お葬式に参列すると生前の個人の思いもよらなかったエピソードや個人の人間関係というのが浮き彫りになってきます。私も同世代のお葬式に何度か参列することがあって、故人が口にしていた言葉などを聞いて驚くことがあります。「ああ故人はそんなことを思っていたのかなるほどな。でも生前は僕にはそんなこと言えなかったんだろうな」というような話とか。

また逆パターンも然りです。ワタシ自身の実話ですが、「ああ、あの子容姿はそこそこだけど、自分の言いたいことばかりまくし立てて、人の言うこと聞かないタイプだから、僕は嫌いだな。もう二度と会わないと思う」なんて、共通の知人について語っていた友人が先日亡くなりました。本当にそうなってしまったのですが、死に別れるにしても、故人がそんな感情のままずっと会うことができなくなったらどうでしょう?生き残った人間がその話を聞いて、周りからそう思われ続けるとしたら、なんという悲劇でしょうか。実は先程の言、ワタシに個人的なメッセでしか語っていなかった言葉でした。なにかのきっかけでその話をしたら、周囲はみんな驚き、その人自身の温厚で素晴らしい人柄であったこともあり、その知人に対する見方が一変するというエピソードがありました。悲劇です。

 

「死人に口なし」とは言いますが、逆もまた然りで、生きている間にきちんとした人間関係を結んでおかなければ、相手が亡くなってしまったときに、取り返しのつかない後悔を残しかねないのだなとも思いました。

 

「因果応報」ということばがあります。その宗教的なことばの背景はさておき、自分のしたことには必ずといっていいほど報いが(いい意味でも悪い意味でも)あるものなのだなと、歳月を重ねるほどに感じるようになってきました。人と人との付き合いが深まり、あるいは人と人とが関わって生きていくことの大切さを実感するほど、それを感じるようになってきました。自分のしたことは、必ず自分に返ってきます。先のエピソードで言えば、故人ときちんとしたコミュニケーションを取っていれば、自身の印象を変えることができた典型的な出来事です。(正直なところ、知人の性格をまさしく言い当てていたので当人の心の入れ替えがない限り、今もムリだと思いますが・・・)人と人との間で起きた誤解を解く機会があれば済んだ話です。そういう会話やコミュニケーションを、苦しくても続けていくことが生きるということなんだろうなとしみじみと思いました。

 

 

相手を理解するということは、ものすごく難しいことです。完全にわかりあうということは、異文化・異環境にある人間同士にとって不可能に近い。でもお互いの考え方や感じ方の共通項を探るという「作業」すらせずに、「生き別れてしまう」ということがどれだけ寂しいことでしょうか?そしてそういう行動に移せない人間は、一生わかりあうことの出来る人間を一人も持てずに終わることになります。そんな人生、何のためにあるのでしょうか?そういうことを「死」という言葉を見るにつけ思い起こすようになりました。