zakkuri_zakkuri's blog

140字じゃ伝えられないことをときどきね。

テクノロジーは誰のもの?

昨日書いたエントリーが思いのほか反響があったみたいで、ちょっとびっくりしています。

ということでなんとなくつれづれなるままに。

 

◇ワタシにとっての広告とテクノロジーとの関係

 

普段から広告とテクノロジーとの関係については、ずっとワタシの中で引っかかるものがあったので、なんとなく今日も書き連ねてみようかなと思います。まあ飲み屋に行くと広告代理店の人と楽しく議論を重ねたりすることでもあるし、一方でテクノロジーの最先端で先陣を切って活動される企業の方とも親しく語り合うことも多いので、そういう意味ではとてもありがたい経験を積ませてもらっているなといつも感謝しています。

 

昨日のエントリーでも強調したのですが、ワタシが広告界隈で働くモチベーションを維持させているのは、「広告は人を幸せにすることができる」という信念を持っているからです。

 

人を幸せにすることができるなら、乱暴な言い方をすれば手段は選びません。つまりワタシが「広告」と「テクノロジー」を結びつけて考えるとき、そこには消費者であったり、その商品を手に取ることになる人々が幸せであって欲しいという希望があります。ワタシにとって、テクノロジーは「手段」であり、「道具」でしかないのです。

 

◇     現場でも普通に感じる環境の変化

 

広告を取り巻く環境が激変してきているのは、この業界で働いている人間ならば誰もが感じていることだと思います。これまではある意味「広告」という世界は「アート」であり(未だにそういう勘違いしている人もいますがw)、大御所の創るクリエイティブには、どこか不可侵のような、そんな変な空気があったのも事実でしょう。

 ところがインターネットなど、さまざまな効果や成果が数値として「可視状態」にさらけだすことのできるツールの登場によって、広告効果に「計測」という概念がきちんと持ち込まれた。これまでなんとなくであった「商品販売状況」と「宣伝活動」との関係性がこれまで以上に綺麗にトレースできるようになりました。不景気で各社の宣伝費が絞り込まれていくという環境下にあって、ただ「アート」だけでは済まされない、「広告効果」がよりシビアに問われるようになってから、「数字」というのがこれまで以上に重要視されるようになってきました。

 

実はこのことは、それとして喜ばしいことですし、広告をやるからには効果を追及する、それが数値化されるのは、アドマンにとっては自身の仕事を検証するのにも分かりやすい反省材料が提供されたと考えるべきだと思うのです。決して悲しむべきことではない。良い効果をあげることができれば、次の受注に繋がることは言うまでもないですし、数字をお得意先企業と共有することは「チーム」として宣伝活動を機能させるのには不可欠だと考えるからです。

ところが、この「テクノロジー」が広告・宣伝活動の中でのポジションを獲得し、次第に重要性が増していくに伴って、それまでは宣伝活動の「手段」であったものが目的と転化していくという状況がぽつぽつと発生してきたところから、何かがおかしくなってきたように感じています。

 

◇     クリエイティブとテクノロジーのバランス

 

現在の広告の世界において、「広告宣伝活動」は、「クリエイティビティ」と「テクノロジー」を両輪として扱うのは言うまでもありません。相互が補完しあうことで、広告効果が最大化すると思えるのですが、テクノロジーは即時に数値化しやすいがために、この「両輪のバランス」が崩れがちと思うのです。

 

「両輪のバランスを維持する」のは、広告に携わる人間の良心にかかっています。

 

極端な例えをするならば、仮に目覚しい売上げを上げることが分かっているテクノロジーがあったとしても、それが人間として犯してはならない「水域」を飛び越えようとするなら、いくら広告主にお金を積まれたとしてもそれを拒否する勇気が広告に携わる人間には必要だと思うのです。

 

なぜならそれは誰をも幸せにしないから。。。

 

◇     広告をやる人間としての矜持とは

 

広告の結果、人が不幸になるとしたら、広告の世界に未来はないと思います。広告やマーケティングが好きでこの業界で働いていることに誇りを持っているのなら、この「覚悟」は絶対に必要だとワタシは確信しているのです。

 

 ところが最近のデジタルを中心とした界隈を眺めるとどうでしょう?そこに収益を得ることができる(金が取れる)と観るや、消費者をだましてでもお金を稼ごうとする人間が多すぎはしませんか?ステマしかりですが、もしテクノロジーを以ってして、そういうことをする人間が出てくるとすれば、忌々しき問題に発展することは言うまでもないでしょう。そんな人を不幸にするためにテクノロジーを必死に学ぶ人間がいるとすれば、それは死の商人とでも呼ぶべき忌まわしい存在です。業界から退場させるべきです。

 

 「広告」が人を幸せにするためにあるとワタシが信じているように、本来「科学(サイエンステクノロジー)」も人を幸せにすることを目的として発展していかなくてはならないはずです。昨日発表された「脳科学」云々が、工事現場で役立つ「ダイナマイト」となるのであればそこには明るい未来がありますが、一歩間違えれば人を殺す「殺人兵器」となる危険性をはらんでいることに注意をしなくてはなりません。そして今テクノロジーとクリエイティブの両輪のバランスをきちんと取れるような人間が広告をコントロールできる、そういう世の中になって欲しいと心から願っています。そのためには今テクノロジー界隈ではびこる「おかしな慣習」や「フェイクな広告人」を改めていく必要があるように感じているのです。

週末のエントリだよ

おはようございます。

 

 昨日はちょっと気持ち悪いエントリをしましたので、今日はライトに(笑)

 さてと今日は金曜日。今日が終わると週末のお休みですね。(土日仕事の人ゴメンナサイ!)気がつけば8月。短い夏があっという間に行ってしまいそう。気持ちいい汗をかきたいですね。もちろん熱中症には気をつけて!

 

 今日まで一生懸命一週間続けてきた「仕事」。皆さんは仕事にどのように取り組まれていますか?「仕事」という語源には諸説ありますが、その意味は「ことを為す」つまり意訳すれば「ご飯を食べるためにことをなす」ということで多くの人は共通して仕事を進めていますよね。

 

 でも、ただご飯を食べるためだけに与えられた仕事をもくもくとこなすだけの毎日はやっぱり息苦しいな。

 

 そもそも「仕事」って上司も部下もなく、「与えられるもの」です。もちろんその過程には、能動的に自分から「取りにいった」その結果「与えられるもの」もあるし、ただルーティンワークとして「与え続けられるもの」もあるでしょう。

人の仕事はその人それぞれ。どちらが良いかなどと論じることはナンセンスですから、「与えられた仕事」をどう進めて行くか?そういうことをワタシはいつも考えて暮らしています。

 

 「仕事」ってとにかく楽しく進めたいですよね。仕事を楽しくするには、どうしたらいいでしょう?やっぱりそこには笑顔がなくては、楽しさはあり得ないと思ってます。 では笑顔で仕事をできるのはどういうシチュエーションでしょう。それは同僚や取引先、そこに発生する人と人との交わりの中に喜びがあることだと思います。それではその喜びはどこから見いだせるか?それは人と人が交わるときにお互いを理解しようとする、その能動的行為からだとワタシは思うのです。

 

 隣の人に関心を持つ、隣の人が何をしているか理解してみようとする。

 

それは隣の人が何をやっているか関心もないし、理解する時間なんかあったら自分の仕事だけ没頭する、そんなギスギスした職場よりもずっと居心地がよくなるのは言うまでもないと思います。

 

 人間関係の中で、そして仕事をする上で最も最低な行為は「無視」です。もちろん気持ちやいろいろな部分で余裕がない。そんなときは誰にでもあるでしょう。それでも気が回らないそんなときでも、隣で働いている同僚のことをちょっと気にかけてみませんか?ちょっとコーヒーブレイクに誘ってみませんか?「大丈夫?」ってちょっと声をかけてみませんか?

 

 そういう体温のあるやり取りが、仕事を円滑にしてくれて、笑顔と楽しさが溢れる職場に少しずつしてくれるんじゃないかな?そんなことを良く考えています。

 

さあ今日一日頑張っていきましょう!

 

いってらっしゃい!ワタシも頑張ります!

【落書き】若者と絡みにくいオジサンたち

よく世代論とかそういうことで対立の構造を煽って、炎上したい人が多いみたいなので、今日は敢えて「逆バリ」で(笑)

身の回りのオジサンを観察して、その悲哀を。

 

あなたの身の回りにもオジサン上司、オジサンマネージャー、オジサン課長いますよね。オジサンたちは、みんながみんな常見陽平さんのように女子大の先生をうまくやっちゃえるほど器用じゃないのです。若い女性に語りかけられないオジサンなんか、童貞イケダオソト以上に多いのです。

オジサンたちはどんな生態なんでしょう?毛嫌いせずに、少し観察してみてからつきあってみてもいいと思います。

 

     オジサンたちは若者との距離感が分からない

オジサンたちだってコミュニケーションしたい。でもコンプライアンスが厳しい現代社会では、ヘタに近づいたら「セクハラ!」、飲みに行こうと誘ったら「パワハラ!」。クールビズでネクタイ取って会社に行ったら「飲み屋の帰りみたい!」若者たちから表からウラから叫ばれ萎縮しているんですよ。意外と。

まあ仕事のときまで萎縮しているのは問題外として、仕事に厳しいオジサンほど本当は仕事のときと違った自分を知ってほしいから「ノミニケーション(古語)」したいと思っています。それを「そういうの流行ってないし」という理由で拒絶されているのは、オジサンたちの立場に立ってみると、ちょっとかわいそうでもあります。

ワタシは誘われたら3回に1回くらいのペースでつきあってますね。たとえ同僚のグチや批判ばかりで、説教くさくて、なんとな~くネガティブでつまらないものでもいいのです。不快な時間となることも多いですけど、彼らのうまい「ガス抜き」ができるということは、ある意味あなたが仕事の上でも信頼されているという裏返しでもあります。適度な距離を保ちながら付き合ってあげましょう。彼らは距離感が分からないんですが、一度この距離はダメだなというのを感覚的に分からせてあげることで、社会人歴の長い彼らのこと、自然とつきあいかたの距離をはかってくれるようになります。

逆にその距離がいつまでも分からないオジサンはダメオヤジです。切り捨てましょう。暴力を振るったり、体を触ってくるような人間は問題外。訴えましょう。

 

     みんなが西島秀俊堺雅人じゃない

上司がラパンのCMにでてくる西島秀俊とか、半沢直樹みたいな上司だったら、なんて素敵な世の中でしょう! 現実は違います。そんなの分かってますよね。そんなの求めちゃいけないと頭で分かっていながら、でもそういう上司を求めてませんか?比較して「このクソサラリーマン!ヘタレ!」と思ってはいませんか?それってブーメランですよ。

オジサンたちだって、自分の部下が綾瀬はるかみたいだったらいいなとか、佐々木希ちゃんみたいだったら、毎日着ていく服で悩むなとか思っているはずです。絶対的にそんなOLいるわけないです。お互いに相手に高望みするのはやめましょう。

そうじゃなくて友好な人間関係を築けるように、どのようにつきあったらいいか考えましょう。そこからオジサンとのお付き合いが始まるわけです。良好な関係が築ければ、ほら少し仕事が楽になってくるような気がしますよ(笑)

 

 

http://youtu.be/pRaL9xlsRxs

ネット選挙と投票と

ネット選挙。そう言われた参議院議員選挙が終わりましたね。

結果はまあある意味予想された通り。直前にあった東京都議会議員選挙での共産党の躍進も参考になりましたが、簡単に言ってしまうと「TPP、原発、消費税増税」という有権者の関心事に、与党に対する対抗の立場を取る野党が票を集めることができなかったという構図が明らかになりましたね。総得票数では自民よりも野党の方が多かったというのも、選挙戦での野党のまとまりがなかった結果とも言えそうです。

ネット選挙。それはデジタルによって生じた「ビッグデータ」をコンピュータで解析するということに改めてフォーカスされた(ある意味今までの公職選挙法改正以前だって出来たことなので)初の選挙と言っていいでしょう。また各政党と候補者がインターネットを積極的に活用しようと意識した最初の選挙と言う点では、明らかに歴史的なものだと思います。

今回から数回、このことに触れようと思いますが、(毎回だと重いからときどきね)正直なところ、これからの国政と有権者の関わりがどうあるかについて、自分でもいろいろ考えさせられました。

 

スマートフォンの普及で「いつ?どこで?」がリアルに

今回の選挙でTwitterのタイムラインでも分かるように、「いつ?どこで?」というのが物凄く見えやすい選挙活動だったと思います。候補者や政党の代表は街頭演説に当たって積極的に「場所」をツイートしていましたし、ユーザーは応援演説に立つタレントや著名人を見つけると、その様子を場所や写真とともにツイートしている様子が見られました。

 

例えばこうして演説、場所を呼びかけた党首の行動に対して、時間(タイムスタンプ)や場所(ジオタグ)、添付された写真などを細かく分析して、「どのようなタイミングで有権者に語りかけると効果的に演説会に足を運んでもらえるか?」とか「どのような人物が語ると自分の政党の候補者の演説に関心を持ってもらえるか?」ということを考察するのが大切だと思っています。

おそらくひとつひとつのデータは小さいですが、「足を運ぶ」という行動がどのような条件下で引き起こされるのか?その方程式が見えてくるといろいろと面白いのではないかな?と思います。

 

(次回に続く)

閑話休題

選挙の話を書く前に、閑話休題。

 

今日もゲリラ豪雨に見舞われた関東地方。ここ数年こんな気候になったのかな?

「ゲリラ」って言葉がなんだか血なまぐさい感じがして、ちょっとググってみた。すると

 

Guerrilla(スペイン語)】

●小部隊による奇襲などで敵を混乱させる戦法。また、その部隊や戦闘員。「戦」

http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/68911/m0u/

 

ゲリラって「小部隊」神出鬼没な戦法なんですよね。まさしく関東地方に突如として現れる雷雲と一極集中型の降雨は確かに「ゲリラ」そのもの。

 

そういう意味では「梅雨」とか「台風」っていうのは、大きな「部隊」による攻撃であって、攻撃前には時間の余裕があるだけに、事前にある程度準備して対抗できるということですね(笑)

 

 

でもこの「ゲリラ豪雨」の前には、本当に人間の科学の無力さを感じざるを得ません。東京アメッシュやあらゆる気象予報ですら、ギリギリまで降雨を予測できませんし、ほとんどの人が雨が降り始めてから「あーあどうしよう。こんな雨だと外に出たくないなあ」なんて嘆くんですものね。ビッグデータでこういう降雨予想も限りなく「正答率」を上げていこうとはしているものの、やはり自然の前では全てが後手に回ってしまいがち。人間は科学に奢らず、ただ謙虚に事実の前に向かい合うということが大切なんだなあと思い知らされます。

ブログ 流行っているんですか?(笑)

なんだか流行っているみたいなので(笑)

 

ツイッターやフェイスブックと言う、人間のアクティブ行動がトレースできるメディアが出来たのは、ここ数年で特筆すべき現象だろうと思う。

 

これまでのインターネットのサービスと異なるのは、それが「可視化されたつながり」というかたちで周辺の人間が見ることが出来るという点に尽きると思う。

 

もちろんこれまでの「掲示板」でも「アゲ」といったかたちで更新を知る由はあったのだが、ソーシャルメディアは「タイムライン」というかたちで、リアルタイムにあるいはタイムスタンプの付いた形で人間(個人)そのものの動きや生活、考えをトレースできる。しかもソーシャルメディアはそのプラットフォーム自体が自身の動きが反映される「場」でもあるから、自らが「場」に居ながら、他人の「場」も共有できるというのもこれまでのインターネットサービスとは明らかに異なっている点だろう。

 

よく「ライフログ」といった言葉で示されることがあるが、まさしく「ソーシャル活動」自体がその人間の生活を切り出す側面が大きくなってきた時代に突入したことは間違いない。

 

LINEというのは、自身あまりヘビーに使ったことがないのでまだまだ勉強不足なのだが、とても面白いプラットフォームだと思っている。個別の「チャット」的なやりとりが時系列に可視化されるだけではなく、グループチャットすら時系列にアーカイブ化されるのは、まさしく「オンライン会議室」的なコミュニケーションだと思うし、それを他者が閲覧できるというのは、これまでクローズドで展開していたさまざまなコミュニケーションがオープン化されるという意味でも非常に興味深い。

 

と、なんとなく流行りのソーシャルメディアを乱暴に俯瞰してみた。

最近ワタシ自身が「オフライン」や「リアル」と呼ばれる世界とこうしたオンラインコミュニティとのつながりや相互に及ぼす影響という部分で考えてみることが多くなってきたので、今回のネット選挙(といってもフォーカスされたのは、前述のソーシャルメディアツールを活用した選挙運動だろう)には個人的関心が非常に高かった。

 

いろんな論者が「ネット選挙で新たな地平線が見えた」「ネットなんか実際の投票行動には全く影響はなかった」など賛否両論であるが、ワタシ自身は、あえてそういった賛否論ではなく、これからオフライントゥオンライン、オンライントゥオフラインを考えていくケースパターンとして冷静に見たいなと思うし、こういったデータが出てくると面白いなということを書きたいと思う。ということで続きはまた。