最先端科学と人々生活との未来について
またまたお久しぶりです。
自分で立ち上げたプロジェクトが佳境ですっかりブログがご無沙汰になっちゃいました(←言い訳)
さて、広告の世界だけではないんですが、昨今の「グーグルグラス」にも代表されるように人間の近いところにコンピューターサイエンスが投入される世界、ユビキタスという言葉が一般的に語られる時代になった2000年前半の概念が、徐々に現実化されてくる未来に突入してきたように思います。
ワタシが「ウェアラブル」という言葉を知ったのは、確か当時大阪大学の助教授(現在は神戸大学の教授)の塚本昌彦氏の講演会で聞いてからだと思います。当時はなんと言っても「バッテリー問題」が最大の課題で、コンピューターを稼動させ続けるために背中のリュックにバッテリーを背負ってプレゼンテーションされていたのを記憶しています。
生体に一番近いところで、テクノロジーが稼動する。
これから高齢化社会となり、肉体的・体力的な衰えが出てくる人が増えてくる将来に向けて、そして少子高齢化を止めることが難しくなってくる日本の社会において、「人間の行動を助ける」テクノロジーの開発は急務でしょう。「便利な社会」という理想はもちろんですが、恐らく必要に迫られる時代というのがこれから来るのは確実だと思います。
ただし・・・です。
先日「デザイナーベビー」という気持ち悪いタイトルとともに、気持ちの悪いニュースを読んでしまいました。
http://sankei.jp.msn.com/science/news/131020/scn13102021230001-n1.htm
まさに「科学の暴走」。必要とされる「欲求」と「欲望」を履き違えた典型的な事例なのではないかと思います。
科学とビジネスとが結びつく場合、ワタシはこの必要とされる「欲求」と「欲望」との境界線をどのように折り合いを付けていくかということが非常に大切であると感じています。ともすると広告業界のような世界にいると、売上げや利益率ばかり追求し、「欲望」の赴くままに科学を暴走させる方向に行くのではないかということを懸念しています。
ウェアラブルコンピューティングを現実的なものとするためには、生体からの信号をどのようにコンピューターに「入力」していくか?ということがカギとなってくるのは自明で、それを考えると「人とはなにか?」「人のこころとは何か?」という繊細な部分への配慮・考察というのが、ビジネスや利益追求以上に必要とされてくる部分となってくると思います。果たしてそういう人間がビジネスの世界にどれだけ育成されているのか?
昨今の日本での「心の喪失」のような事件の数々をみていると、単に犯罪者の心理模様だけではないように感じています。
こういう時代だからこそ、より繊細な「人間の心の研究」というのが求められていって欲しいし、そういう人間こそビジネスに関わって欲しいと、切に願っています。
記事と広告の一体化とは本当に可能ですか? ~メディアと一体化した広告コンテンツの展開を考える~
お久しぶりです。
先週非常に関心を持ったニュースがありました。デジタルメディアの新商品のリリースではありますが、今のネット広告業界、特にデジタル専業の広告に携わる会社がメディアと言うものをどのように捉えているかを知るのに、非常に興味深い案件です。
cci、「ザ・ハフィントン・ポスト」日本版で「Category Sponsored」広告を提供開始
http://www.cci.co.jp/news/release/2013_09_17/02.html
「カテゴリースポンサード広告」と定義しているものの、どのような形で露出するのかは、2013年9月24日の段階では分かりません。ただリリースを読むとこんな文章があり、少し気になりました。以下の文章です。
「Category Sponsoredとは特定のテーマに沿ってカテゴリーを設置し、記事と広告が一体となったコンテンツを作成する取り組み。今回は「企業の社会的責任(CSR)」をテーマにしている。」(原文ママ)
ここでWOMJで記述されている、広告と情報発信者との関係について、下記に抜粋します。
Ⅵ. 関係性明示
1. 情報発信者に対し、WOM マーケティングを目的とした、重要な金銭・物品・サービス等の提供が行われる場合、マーケティング主体と情報発信者の間には「関係性がある」と定める。関係性がある場合には、その関係性は情報受信者が容易に理解できる方法で明示されるべきである。
2. 関係性がある場合には、情報発信者に対し原則として関係性明示を義務付けなければならない。義務付けることが極めて難しい合理的な理由がある場合には義務付けなくてもよいが、その場合でも関係性が明示されるよう最大限の努力を行わねばならない。
3. 関係性の明示の際には、WOM マーケティングのマーケティング主体の名称と、情報発信者への金銭・物品・サービス等の提供の有無は示されるべきである。金銭・物品・サービス等の提供の内容についても、詳細に示されることが望ましい。
※WOMJガイドラインより抜粋 http://womj.jp/womjguideline.pdf
もちろんcci社はWOMJの加盟社であり、
この「関係性の明示」と言う部分に記載された事項については、熟知されているものと思っています。
この前提に立って、今回の広告商品について考えると、これは大丈夫かなと思われる部分がいくつかあったので、それを疑問点としてあげます。
■疑問点
① そもそもこれは全体として「記事広告」として展開するのか?それともハフィントンポストのコンテンツ(記事)として展開するのか?もし別々の場合、「記事」と「(記事)広告」の主張の間に齟齬が発生した場合にどのように対処するのか。「一体化」というのはどういうことなのか?
② 上を受けて、「コンテンツ(記事)=CSR」として展開・主張が、ハフィントンポストの社論、見解と異なった場合、どのように記事を展開するのか?
③ 企業CSRとのことだが、まさに企業の経営の柱とも言うべき主義主張に対するそもそもハフィントンポストの見解は全面的に是とするものであるのか?もし相違点が出てきた場合、それをメディアとしてどのように説明していくのか?
さて今回の広告商品について、記事コンテンツの展開として、ハフィントンポストと広告主との間の関係性は明示されるでしょうか?特に記事部分に!
ワタシ個人の意見としては、こういった展開をしていく場合には、きちんと「広告」であることを明示することが重要であると考えています。万が一ではありますが、広告主に不祥事があったとして、メディアとしてその事件を糾弾するということになった場合のことも考えているのでしょうか?その点をうやむやにして、「コンテンツスポンサード」という「記事」なのか「広告」なのかも曖昧にしたままの展開は、それこそWOMJの定めた方向性に沿わないものでしょう。
それから、「カテゴリースポンサード」の本来の形は、「メディア側の主張に対して、スポンサーが協賛する」というものであるとワタシは考えています。テレビでいう「冠スポンサー」は番組の内容に対して基本的には口を出さないのが原則です。ただコンテンツを展開するに当たっては、そのメディアの信頼性であったり、クオリティを担保することが本質的に広告主のブランドに寄与するという、その点がメリットになると考えています。そして既存マスはそれができるし、これまでしてきた実績があります。
今回一番大丈夫かな?と思ったのは「CSRをコンテンツとして展開する」という言葉です。広告主とメディアが別々の企業である以上、CSRの部分で完全に賛同するなどと言うことはありえない。それはいくらカテゴリーを絞ったところで同じことです。企業は生きています。CSRの方針が年々変わることは、社会環境の変化があることを考えれば当然のことです。それなのに、リリースではその部分を軽々しく「記事と広告が一体化」などと言い放ってしまっている。大丈夫でしょうか?
今のところこの企画のローンチはまだのようですが、企画が開始した際には注視したい案件です。さらに厳しいことを言うと、「メディアレップ」を名乗る会社が本当に「メディア」というものが分かっているかをはかる「試金石」になるとも考えています。10年を超えてメディアレップを名乗ってきた会社としての理解度が問われるといっても良いのではないでしょうか。
【追記】
本文中でWOMJの事例を挙げたのは、ハフィントンポストが
「ニュース、ブログ、ソーシャルメディアを組み合わせたサービスで、記事にコメントを付けて議論をするという使われ方が特徴だ」
http://biz-journal.jp/i/2013/05/post_2053.html
という前提に立っているからです。もちろん、もしその後方針転換をして、そうではでない「静的」なメディアであったとしても、広告主体の明示というメディアとしての大前提が崩れるものではありませんが。
自分と客観視するということ そして新しいメディア。
自分を客観視するっていう作業はとても難しいです。
ブログをこうして書いて残しているのは、数日・数ヶ月経った後に自分の書いた文章を客観的に見直すことができるというメリットを感じているからで。
そういう意味ではワタシのブログは、日記の域を出ないものです。
よく言う「ジャーナリズム」って、とても難しいものだと思います。記者とて人間ですから、自分の感情として肩入れしたいような事件、嫌いな取材対象、できれば報道したくないこと、裏は取れていないけど間違いなく伝えても問題と思われるような憶測。いろいろあるはずです。
ただいわゆる「組織ジャーナリズム」に属している記者は、主観報道は許されませんよね。自分の書いた文章に赤を入れられ、修正し、報道として間違いのないものを表に出す。個人的な感情や偏見を極力排した記事を書く。それが組織ジャーナリズムの強みだと思います。
インターネットメディアがさまざまに出てきて、いわゆる「その道のプロ」とも言うべき「個人ジャーナリズム」に注目が集まっています。個人のジャーナリズムの強みは先の組織ジャーナリズムとは大局で、「オレはこう思う(←嫌なフレーズだw)」という主観で報道できるところにあると思います。こうしたメディアが出てきたことは、それを受け取る生活者の立場からすると、選択肢が多様化したということですし、テレビや新聞社が送り出す画一的な報道内容とは一線を画するものとして、非常に刺激的だと思います。
その反面、書き手のプロフェッショナリズムというのが非常に重要になってきます。「コタツ記者」では困るわけです。自分の専門分野に関しては、どこにでも足を運び、取材し、まとめ、過去の専門分野における情報と照らし、裏づけも含めて全て一人でやらなくてはならない。これはすごいことです。一朝一夕では真似は出来ないでしょう。
ワタシはこうした色々な情報が流れてくる今の時代はある意味、一方向に収束していくのではないか?という予想をしています。恐らくですが、インターネット「だけ」の世界、WEB業界だけでは、単一のメディア、独立性の高いメディアというのは出現することはないでしょう。本当はネットだけのメディアというのが生まれれば、面白いと思っていたのですが、ハフィントンポスト日本の思わぬ苦戦を見るからに、やはり既存メディアとIT企業ががっちり手を組んで、双方の強みを生かすようなビジネスを考えない限り、新しい「ハイブリッド型」のメディアは誕生しないように思います。
さてそのようなことが可能なのでしょうか?そこらへんについては、おいおい考察したいと思います。今日はこの辺で。
良い午後をお過ごしください。
しあわせになるために 生まれてきたんだから
「しあわせになるために 生まれてきたんだから
好きな人と 一緒にいなさい」
安全地帯(玉置浩二)の「しあわせのランプ」という曲の一節です。
http://www.youtube.com/watch?v=ExRR9MzWW9M
歌詞
http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=B06778
コブクロにもカバーされている曲なので意外に知られているのかもしれないですが、ワタシは玉置バージョンで聴きました。
玉置自身はなんだか奇行というか、ちょっとどうなの?的な行動で物議をかもしてますが、彼の曲というのは本当に歌詞の尾ひれを究極に削ぎ落して、ストレートに人間の感情に訴えかけるところがあって、「はっ」とさせられることがあります。
人間って幸せになるために生まれてきたんですよね。
生まれてきた赤ちゃんをみて、その子の幸せを願って
みんなそうして大きくなって行くんですよね。
でも赤ちゃんが決して一人では生きていくことが出来ないように、
そして大きく成長したとしても、
決してひとりでは生きてゆくことはできなくて。
こんな歌詞の一節があります。
「この星を見つめて めぐりあった頃のことを思って 逢いたくて たまんなかったら さみしいよって言って もどってきなさい」
みんなひとりで生きていくほど
生きていけるほど、強くはないんですよね。
そう思ったら、素直になって、さみしいよって
ただ自分の弱さを周りの人に吐き出して。
そういうことを繰り返しながらも、人間は人と人との関わりの中で生きていくんだなと思います。
そしてそうやって生きていくことが、なんて温かい生き方なのかな。
そう思います。
あなたのそばにいる あなたの大切な人を大切にして
そうやって生きていくのが大切だな。
そう思わせてくれる「うた」です。
新しいネットメディア「ハフポ」ってどうなってんの?
PV至上主義でメディアを育てようとすると、どうやっても扇情的なタイトルだったり、ゴシップ的なもの、ライフハック、TIPS、そんなものばかりになってしまい一時的なPV増は見込めても、定着するユーザーを確保できないですよね。
そんな悩みを抱えるウェブマスターは多いのではないかと思います。「ハフィントンポスト日本」の迷走っぷりをみると、一体マーケティング担当者とログ解析やっている人間とのリレーションシップはどうなっているの?多分ろくな指針を示せていないんだろうなあと思わざるを得ません。
そもそも今のハフポはどういうメディアになりたいと思っているのでしょう?そういうメディアとしての方向性が全く見えません。友人の新聞記者OBのフリージャーナリストも嘲笑し、「あれもうだめでしょ・・・」と言っている始末です。折角朝日新聞の編集という金では買えないブレーンも参画しているのに、未だ編集方針が全くユーザーに伝わらないのでは、死屍累々にまたひとつ市民メディアが・・・。あ、そういやオーマイニュースどうなった?的な感慨深い胸中です、はい。
こういう新規メディアは、スタート時の売上げ等を含めてマイナスからスタートするのは致し方ないことで、問題は3年後にどのようなポジションを獲得しているかということに尽きると思うんですよね。3年後に安定したメディアになるためには、当然大企業を中心としたスポンサーをどのように獲得するかということもあるし、そういったスポンサーが付かないときにも安定的に収入を上げるための施策がどうあるべきか?そういうことに尽きると思います。ただ、今のハフポはそういう見通しすら見えない。販売レップであるサイバーコミュニケーションズ様と電通様の営業力とこれからの奮起に期待したいと思います。マーケティング担当と営業部隊が「このメディアは●●なメディアです」と胸を張って売れるようにならないとダメでしょうね。まあ難しいと思いますけど、もう立ち上げて数ヶ月立ってますからね、今のうちに手を打っておかないと、みんなに忘れ去られると思っています。
個人的な感想ですが、今のままでは1年後ハフポは「店じまい」だと思っています。だってあらゆる点で中途半端なんですもん。なんかどこかの「まとめページ」とソーシャルメディアとかで目立っている人の「BLOGOS」もどきのメディアにしか見えないですもん。あ、そういえばYAHOO個人ってどうなったんでしたっけ?
なんだか、ネットって本当にクソみたいなコンテンツほど受けるので、ハフポのツイートの最近の劣化振りが本当にひどい。編集長、本当にこんなツイートの結果がハフポの未来に役立つと思っているんでしょうか?
ハフポ!生き残ってね!
【雑談】気持ち悪い広告って
Omfさんにエントリーしていただいたので、それへのレスポンス的に。
とても大切な指摘をしていただいたと思っています。
Omfさんより
「この人の中で行動ターゲティングとかリターゲティングが気持ち悪いと言われている理由がよくわかんない。」
確かにその通りでした。ご指摘感謝します。ちょっと今日はそこについて書き足そうと思います。
■誰のための行動ターゲティング?リターゲティング?
広告効果の向上、CVRの効率的なアップの施策として、インターネットユーザの検索履歴や訪問履歴を基にした広告配信というのは、それ自体として否定されるべきものではないですし、あって便利なことも多いと思います。
ただ、以前のエントリーにも記述したのですが、そのステートメントの発表やオプトアウトについての説明が、あまりに不親切に過ぎないでしょうか?
ある人にとっては便利、ある人にとっては不愉快。
そういうことが想定されるのであれば、特に不愉快に思っている人のためにも「この広告はどういった技術の元に配信されているのか、望まない場合はどのように解除すればいいのか」などを表明すべきだと思います。誰にでもわかりやすく。これはメディア、広告配信会社ともに課せられた義務といってもいいと思います。今は「便利」が優先され、その声が大きいと(得てして聞こえてくる声はポジティブなものが大きくなりがちですから)なおざりにされがちなことだと思っています。
以前ワタシは、とあるメディアに寄せられた「苦情」に直接対応したことがあります。声の感じからは60歳代後半の男性でしょうか。
彼が曰く、
「いつも情報収集で見に行ったサイトでも、別のサイトにもいつも同じ車の広告が掲載されてくる。いつもなんだかいかがわしい精力剤のような広告が出てくる。今日おたくのサイトに行ったら、また同じ広告だ。一体どうなっているんですか?おたくはあんな広告を載せる必要があるんですか?」
ワタシは広告の配信の仕組み、どのような広告なのかを、分かりやすく説明していました。と、そのときふと気づいたのです。
「別に技術的にどうこうするという話じゃない。メディアを楽しみに見に来てくれたユーザーにクリックさせたいがために広告を押し付ける行為ってユーザーにとって鬱陶しいものだよね。それって結局メディアそのものが『不快なもの』として認識されてしまう。広告も含めて『メディア』なんだから、そのステートメントをきちんと表明すること、節度あるフリークエンシーで広告を掲出すること、クリエイティブはメディアを閲覧しているユーザーのことを良く考えて配信すること・・・本質はそこなんじゃないかな。」
ともすると、ROIから逆算した配信数になるために在庫のほとんどをリターゲティング広告や行動ターゲティング広告に占められるということはないでしょうか?本来配信数はメディアがコントロールするからこそ、節度ある掲出割合で見えていたものが、「在庫の有効活用」という名のもとに、ユーザーへの見え方がなおざりになっていないでしょうか?配慮の欠けた配信をすることで、ユーザーの不快感を増すようなことをしていないでしょうか?
そういう意味で「広告は生活者にとって有益なものであるべき」という原点に帰る必要があると思っています。ユーザーは広告を見にメディアに接触しているわけではないのです。
果たして、今のメディアのうちどれだけ、フリークエンシーコントロールに配慮した媒体となれるでしょうか?配信技術についての説明やオプトアウトの方法について、丁寧に説明しているオンラインメディアがどれだけ出てくるでしょうか?
そして広告配信テクノロジーを販売している「メディアレップ」や「デジタルエージェンシー」の担当者がユーザーにどのように感じられるかということに意識を持って仕事が出来る人がどれだけ出てくるでしょうか?ただグロスの売上げを確保するためだけに、ネットワーク広告のインベントリーの獲得に奔走し、得意先からもらった宣伝予算を消化するために、ひたすらユーザーを追っかけまわす広告を垂れ流すような、モラルの低い広告やメディアはやがて淘汰され、消えてゆくと思います。そしてそんな広告は広告主にとっても有益なものとはならないはずです。
今回はデジタルに絞って話していますが、これはインターネット広告に限らず、広告全体に言えることじゃないかなとも感じています。またこの点については触れていきますね。
では良い午後を。
【雑談】広告って「オワコン」なの?
デジタル周りの広告を見ていると、そしてメディアをきちんと売ることが出来ない代理店を見ていると、もはや広告ってオワコンなんじゃないかと不安な気持ちで一杯になります。
デジタル周りで切り取ってみても、そもそも広告に「テクノロジーだ」「マーケティングだ」「ビッグデータだ」と言ってますが、果たしてここ数年どんな成果がありましたか?
実際に世の中に出てきたものを見ると、「行動ターゲティング広告」「リターゲティング広告」というユーザーにとっては目障りで鬱陶しいものばかり。
「マーケティング」にしたって、未だにSUICAデータの不正(←敢えて言う)利用であったり、人間の心の中を覗くような「ニューロマーケティング」、個人情報、いや人間として知られたくないようなプライバシー侵害すれすれのマーケティングで、不快感を増すようなことばかりしている。
「ビッグデータ」にしたって、統計学的にあらゆる巨大に蓄積された生活情報をコンピュータに分析させ、「こんな結果になりました。●●社はこの分析をもとにさらなる新しい広告を開発・・・」っていつ出てくるの?その画期的な広告は?と思うわけです。
一言で言って、今の広告って気持ち悪い。効果を挙げるために人間のあとをつけまわして、クーポンだの、金券だのといったインセンティブを持って個人情報を買い取って、そんなことに「テクノロジー」だ「マーケティング」だのリソースを割いているんじゃないですか?本質に全く切れ込んでいないようにしか見えないですね。
本来広告ってなんですか?そして今の時代だからこそ、広告に求められているものって何なんでしょう?これだけメディア研究も進んで、消費者中心の社会になったと言って、未だやっていることが消費者への嫌がらせの押し付けの広告っていうのはいかがなものなんでしょうね。
そもそもメディアって何故メディア足りえるのか?考えてみてください。マスメディアにしても、そうではない生活者が接触するメディアでも、いずれも強弱は有れど、生活者が「自らの意思」をもって接触しているものです。まずそのメディアへの接触がどのようなものであるかを、広告を発信する人間が理解していないで、どうして生活者に受け入れられる広告が作られるでしょう。
広告は「メディア」というプラットフォームの上に載っていかなくては、「自走」はできないでしょう。テレビのスポットCMがスキップされるようになってしまったのはなぜですか?新聞広告で健康食品の通販ばかりになってしまったのはなぜですか?いつの間に雑誌広告は医療法違反の美容整形ばかりになってしまったのでしょう?そういうことを分析しないで、やれテクノロジーだ、マーケティングだなんて下らないとしか言いようがありません。
テクノロジーでもマーケティングでもいいのですが、もうちょっと身の回りを取り巻くものをもう一度見てみませんか?情報爆発と言っても、ビッグデータと言っても、そもそもひとりの人間が接触できるメディアなんてそんなにないですよね。そうならば、そのひとつひとつのメディアがどんなものであるか、もう少し丁寧に見てみませんか?人間をテクノロジーやマーケティングで追い掛け回さなくても、そこから見えてくるものって、もっとあるんじゃないですか?多分広告が生きていく道は、今の人間を取り巻く環境を丁寧に観察することから生まれてくるんじゃないか?デジタルでもテクノロジーでもない、そういうところに広告がある意義が出てくるんじゃないか?そう思います。今の広告業界周りは数字に追い掛け回された、金クレ乞食にしか見えません。