zakkuri_zakkuri's blog

140字じゃ伝えられないことをときどきね。

お盆かあ。

どうもです。

世の中は土曜日からお盆休みのようですね。

ワタシは仕事です(涙)

 

仕事って「やらされている」と思ったり、「自分がこうありたいと思っていること」と「会社やクライアントの評価」が違ったりすると、悲しいものですよね。

 

でもいつ、どんな環境でも需要と供給のちょっとしたズレってあるもので、そのズレに自分を合わせるのか、自分の言説の方向に相手を持ってくるのか、どっちを選択するかで自分の身の振り方って本当に変わってくるものです。

実はワタシは本業の他に、収入を得ないプロボノとしていろいろなPRや相談に乗っています。あくまでボランティアですから、通常業務で存在する「責任」はないのですが、依頼されてやる以上は自分のスキルを最大に発揮して「責任をもって」アドバイスしています。

実は本業以外でこういう「仕事」を請け負うといろいろな発見とか気付きがあって。というのも普通の業務とは全く関係のない、縁のないところからオファーが来るものですから、なにもかもが新しいのですよね。そう言う意味では自分がお金を払ってもやらせてもらいたいということもあったりします。

 

仕事って本当に深い。評価されることだけが仕事なんじゃないんですよね。いろいろな人がいて、いろいろな仕事があって、それをなんとなく触れる機会があって。そういう刺激が身の回りにあることって、すごく楽しい。

 

ワタシのゆるーい仕事感をなんとなく書いてみました。

さあ、仕事仕事!

 

それでは〜

長崎の日に思う

 

長崎の原爆資料館に数年前に行ったことがあります。(まだ広島には残念ながら行けていないのですが)行かれたことのない方は、是非行かれることをお勧めします。

 

長崎原爆資料館HP

http://www.city.nagasaki.lg.jp/peace/japanese/abm/

 

爆弾1つで何万人という命が瞬時に奪われ、生き残った人間には地獄の苦しみを与え続ける。熱線があっという間にありとあらゆるものを溶かし、鉄を曲げ、大地を焦土と化す。展示されているもの一つ一つを見て、それがほんの数分前にはあるべき姿のまま、日常生活の中に溶け込んでいたことを思うと、戦争の異常さ、人殺しの恐ろしさを感じざるを得ません。

 

長崎も広島も太陽が昇っている明るい昼間に爆撃されました。爆撃後には「原爆雲」もあって暗くなったと思いますが、それでも昼間の出来事です。熱線に焼かれ、そこかしこに重度のやけどの人間が水を求めて歩き、あるものは行き倒れ、生きながらにしての地獄絵図を見せられた被爆者の心境は計り知れません。想像を大きく超える地獄です。ワタシが個人的に数回に渡って「科学の暴走」に警鐘を鳴らし続けるのは、実は文明の発展には表と裏の結末が必然であり、それを生かすも殺すも人間次第であるということに恐怖に似た感情を抱いているからなのです。

 

科学の発達が、来るべき超高齢化社会に向け、その人間生活を手助けするようなものを開発し、発展し、プロダクトを生み出すことは歓迎するべきことです。異論はありません。がしかし、そうやって開発されたプロダクトそのものが、人間の幸福とは逆の利用をされたとき、悲劇の連鎖が始まります。

「ロボット」開発が一方で人間の生活を補完し、人の手の届かないところを補って役立つ一方で、軍事用ロボットの開発に見られるように逆の利用もあるのです。脳科学にしても、最新医療にしても、その利用方法が人間の「欲望」に支配されたとき、悲劇は始まるといって良いでしょう。想像するだけでも場合によっては人を「死」に追いやることの出来る科学なのです。科学にはその背中あわせの恐怖が常にあります。

 

ワタシが今ご飯を食べている「広告」という領域でテクノロジーがどのような使われ方をしているか冷静に見てみると、本当に生活者の幸せを願っているのか疑問に思うようなことばかりです。「リターゲティング広告」では、たった一度見にいっただけなのに、なんどもそのサイトの広告を見せられたり(技術的に●回見せたら、そのユーザーには掲出しないなんていう小細工は簡単なはずです)、LINEであれば、知らないうちに電話番号とそれ以外(どんな情報が吸い上げられているか分かりにくい)のデータを吸い取られ、何に活用されているか分かりません。しかも一度吸い取られたデータはクラウド上で消すことすら適わないのです。

 

取られたデータがどう活用されるか、それは事業社側のモラル、倫理観にゆだねるしかないのですが、果たして現在の状況を見るに「顧客のメリットを具現化すればいい」ひいては「儲かればいい」という方向に加速しているように見えないでしょうか?私には見えます。それは怖いのです。ただただ怖いのです。

 

 

 科学・テクノロジーという「道具」を扱うのは人間です。人間が人の心を思うことを亡くしたとき悲劇は必ず起こります。ただただ「ビジネス」という名の「金の亡者」にテクノロジーが悪用されないことを、心から願うばかりです。大学・研究者は「象牙の塔」であってこそ輝くものです。実社会とは適度な距離をおき、俗世で汚れた「にわか研究者もどき」の誤った商業主義に騙されず、巻き込まれないことを切に願っています。

【閑話休題】お盆も近いしね。

誰にでも「死ね」というくらい関係がこじれちゃって、どうしようもない人(たち)っていると思います。でもね、「死ね」って口に出しても実はなんにも解決しない。むしろ死ぬときに自分の人生って一体なんだったのだろう?と必ず思い起こすことがありますから、そのときに後悔したり、悲しんだりすることがないように生きることが大切ですよね。

 

「死ね」なんて言わなくても、人間は遅かれ早かれ死にます。死ぬときは当然一人です。おのずと死を直前にして自問自答を繰り返すことになります。恐らく人間が「死ぬ」というその問題は死の間際に自分は生きていて良かったなと思える死に様にあると思っています。

 

いい死に方ってなんだろう?

 

自分は生前に関わった人々から惜しまれつつ、涙を流され、いい人間をなくしたと悲しまれて死ぬのか。

それとも「コイツやっと死んだよ。せいせいした」と、死に際しても唾をかけられ、ざまあみろと蔑まれ、憎まれて死んでいくか。

「ああ、自分のやれることはやった、満足だ!」と死ぬにしても、必ず「あれ?これでよかったのかな?」と自答することがあると思います。

 

その解って、自分が生前に「人として」周りにどのように接して生きてきたかに拠るんだろうなと最近ぼんやりと思うようになってきました。

 

人間というのは、特定の人間だけ「いい態度」というのを「演じること」は難しい生き物です。誰かに対してひどい仕打ちをしている人間は、ほぼ間違いなく別の人間にも同じような行動を取っています。残酷ですが深い友人関係を築けている人、多くの助けてくれる友人を持つ人間と、そうでない人間の差というのは、男女を問わず年齢を重ねるごとにどんどんと開いていくものです。魅力ある人間はその人間の肩書きや容姿、お金などには関係なく人が集まりますが、そうでない人間、人との関係を大切にしない人間は持てるものを失うにしたがって、「友人と呼んでいた人」を失っていきます。離れていきます。そういう事例をいろいろと目の当たりにしてきました。

 

お葬式に参列すると生前の個人の思いもよらなかったエピソードや個人の人間関係というのが浮き彫りになってきます。私も同世代のお葬式に何度か参列することがあって、故人が口にしていた言葉などを聞いて驚くことがあります。「ああ故人はそんなことを思っていたのかなるほどな。でも生前は僕にはそんなこと言えなかったんだろうな」というような話とか。

また逆パターンも然りです。ワタシ自身の実話ですが、「ああ、あの子容姿はそこそこだけど、自分の言いたいことばかりまくし立てて、人の言うこと聞かないタイプだから、僕は嫌いだな。もう二度と会わないと思う」なんて、共通の知人について語っていた友人が先日亡くなりました。本当にそうなってしまったのですが、死に別れるにしても、故人がそんな感情のままずっと会うことができなくなったらどうでしょう?生き残った人間がその話を聞いて、周りからそう思われ続けるとしたら、なんという悲劇でしょうか。実は先程の言、ワタシに個人的なメッセでしか語っていなかった言葉でした。なにかのきっかけでその話をしたら、周囲はみんな驚き、その人自身の温厚で素晴らしい人柄であったこともあり、その知人に対する見方が一変するというエピソードがありました。悲劇です。

 

「死人に口なし」とは言いますが、逆もまた然りで、生きている間にきちんとした人間関係を結んでおかなければ、相手が亡くなってしまったときに、取り返しのつかない後悔を残しかねないのだなとも思いました。

 

「因果応報」ということばがあります。その宗教的なことばの背景はさておき、自分のしたことには必ずといっていいほど報いが(いい意味でも悪い意味でも)あるものなのだなと、歳月を重ねるほどに感じるようになってきました。人と人との付き合いが深まり、あるいは人と人とが関わって生きていくことの大切さを実感するほど、それを感じるようになってきました。自分のしたことは、必ず自分に返ってきます。先のエピソードで言えば、故人ときちんとしたコミュニケーションを取っていれば、自身の印象を変えることができた典型的な出来事です。(正直なところ、知人の性格をまさしく言い当てていたので当人の心の入れ替えがない限り、今もムリだと思いますが・・・)人と人との間で起きた誤解を解く機会があれば済んだ話です。そういう会話やコミュニケーションを、苦しくても続けていくことが生きるということなんだろうなとしみじみと思いました。

 

 

相手を理解するということは、ものすごく難しいことです。完全にわかりあうということは、異文化・異環境にある人間同士にとって不可能に近い。でもお互いの考え方や感じ方の共通項を探るという「作業」すらせずに、「生き別れてしまう」ということがどれだけ寂しいことでしょうか?そしてそういう行動に移せない人間は、一生わかりあうことの出来る人間を一人も持てずに終わることになります。そんな人生、何のためにあるのでしょうか?そういうことを「死」という言葉を見るにつけ思い起こすようになりました。

職業人(プロフェッショナル)として法律を守るということ~広告を送る立場から

 薬事法健康増進法、医療法など医薬品系、健康食品といった「人の口や体に直接作用して、その健康を維持するような商品の広告」の表記に関する規制が、日本では非常に厳しいとされています。

【参考】東京都福祉保険局のページ

http://www.fukushihoken.metro.tokyo.jp/kenkou/iyaku/sonota/koukoku/index.html

 

一方、今の安部政権では、特に中国を中心としたアジア圏での健康志向の高まりを踏まえ、健康食品産業を日本の重要な「輸出産業」と捉え、今のままではその「効能効果」が分かりにくい、薬事法健康増進法に規制された表現について、見直しを検討しているとの報道もあります。 

 そんな中、カネボウ化粧品の「美白化粧品」の問題などが発生すると、やはり人間の皮膚に直接触れる、体内に直接入る「健康食品」などの表記は、生活者の安全を第一に考えなくてはならないということを今一度思い起こさせます。先日のポストでも触れましたが、「広告というのは生活者を幸せにするものでないといけない」と思っていますから、生活者を騙す、惑わす、知らないうちに嫌な思いをさせるような広告は排斥されるべきだと、個人的には思っています。

 

広告に携わるものが「順法精神」をもって行動するのは、いわゆる「コンプライアンス」と呼ばれる「会社組織全体としての社会的責任を果たす」ためだけではなく、そもそも「消費者の安全と健康を守るという観点」から、ひとりひとりの広告マンが意識して動かなくてはならないのは言うまでもないでしょう。一個人の社会への誠実なかかわり方、職業観や高い倫理意識を持てるかとも関わる問題です。ことは場合によっては、消費者自身の生命に影響を及ぼす問題なのですから。

 

 

続きは改めて。

今日という日ですから

アメリカでメディアの買収が話題になっていますが、やはり今日ぐらいは平和について考えたいと思って、よしなしごとを。

 

映画「風たちぬ」をまだ観にいっていませんが、総じて評価が高いようですね。休暇が取れたら観にいきたいなと思っています。毎年ワタシにとっての8月は、第二次世界大戦、日本としては日中戦争から太平洋戦争へと戦線が拡大し、ついには沖縄の悲惨な地上戦、いよいよ本土まで戦火が及び、そして原子力爆弾が投下され、無条件降伏まで至るとなる月として強く認識されています。この月ぐらいは、過去の戦争の悲惨な現実に目をむけ、私たちが自分たちの親やさらにその親の世代の尊い犠牲のもと、平和を享受しているということに思いをはせる時間を持ってもいいと思っています。

 

「国家間の戦争」といってしまうと、人の想像力には遠く、また当時の政治的状況、外交、さまざまな要因も鑑みて、「人のレベル」での議論や考察はしにくいと思います。でも戦争をするのは人です。人と人が国家の名の元に憎しみあい殺しあう。それだけのことです。人と人とが憎しみあうから、戦争のあとに残るものが悲惨で、そして傷も大きいのです。国家は再建します。でも人の心は簡単には再建できない。

ただ私が等身大の感情として「平和」ということを考えるときに、常に思うのは崩れてしまった人間同士の感情、「憎しみの連鎖」をどのようにすれば絶つことが出来るかというその1点です。

 

戦争の結果は、加害者・被害者双方に言葉にも表せない複雑な感情を生みます。被害者は加害者に対し殺してしまいたいほどの憎悪を抱き、加害者は謝罪とその保障よりほかに解決の手段がないとしか考えられないでしょう。戦争が悲惨なのは、この加害者・被害者の関係性がお互いに死ぬまで心の中にしこりを残し、時には加害者であるにも拘らず、被害者への憎悪を抱き、新たな衝突を生んでしまうという悲劇にあるような気がします。

 

この「憎しみの連鎖」はどのように絶てばよいのでしょう。心の弱い私には、今はただお互いの心が癒される手段がどこにあるのかを探るだけです。被害者であれば、どこかのタイミングで加害者の罪を赦すと言い出すことができるか。加害者であれば、被害者の本当の意味で心の傷が癒えるまでの誠意をどこまで続けることができるかということ以外に想像が付きません。

ただ、もしお互いがお互いの関係性を冷静に見直し、荒れた心の状態を治し、手をとって赦しあうことができれば、これに勝る幸せはないように思います。そこには双方の間でのコミュニケーションが発生することが不可欠です。

 

実はこれ普段の人と人との付き合いでも同じですよね。だからこそ、コミュニケーションを生業としている人間こそ、率先してその行動で示さなくてはならないとも思うのです。

 

戦後50年を過ぎ戦争体験者が亡くなり、直接の戦争体験を伝えられる人間が少なくなっていったとしても、和解のきっかけとしては、この「赦しあう」と精神を持ちうるか否かというところに帰着するのではないかと思っています。

お互いに抱く憎しみの感情を解きほぐすのはそう簡単ではないことは分かります。ただそこに突破口となる「和解となる握手」、そして人間としての対話がなければなにも始まらない。それと同じように、「思想」だとか「ポリシー」だとかを超えて、心の境界線をまたぐ勇気というのが求められるのではないかと思います。そのためにどんなコミュニケーションがあるべきか?

あるときは音楽かもしれない。あるときはスポーツかもしれない。そして文化的な交流や意見の交換会かもしれない。コミュニケーションの仕事に携わる人間だからこそ、その難しさ、感情のもつれを乗り越える勇気を持たなくてはならないなとも感じますし、その手段やきっかけを日々模索していかなくてはならないとも思っています。

 

 

そして自分の仕事がそうした平和の架け橋として役立つ日が来ることも、こっそり夢見ていたりするのです。

メディアとどう接したらよいのか(雑感)

 例えば「メディアリテラシー」を語るなら、本当なら「メディアとは何か?」ということをきちんと定義してからスタートするべきなのですが、「バルス祭り」とか「麻生ナチス発言」とか「ネット選挙」とか、生活者とメディアとが接触して、何か社会的に作用、反作用が起きるということが出てきたので、もう少しざっくばらんとした内容を徒然なるままに書こうかなと思いました。

 

  そもそもメディアとどのように接触しているのでしょう?

 

さて日常生活で私たちはメディアとどんなおつきあいをしているでしょう?今朝方、田端信太郎氏のツイートでこんな記事が流れてきました。

 

メディア接触トップ交代TVからデジタルメディアへPCからモバイルへ

http://blogos.com/outline/67451/

 

各メディアの接触時間の変遷をたどりながら、生活者との関係性について考えるコラムです。

この記事にある接触時間を見てどう思われるでしょうか?

ワタシがこの資料を見て感じたのは、今の生活者の時間の「使い方」が確かに大きく変わってきているのだなあということと同時に、しかし接触時間が減少する、あるいは増加することと、そのメディアそのものが社会に及ぼす影響力との相関関係は時間だけでは量ることができないのではないかという疑問です。その典型的な事例が例の「バルス祭り」のように感じていました。

 

  共有する「ネタ」の根源は今もマスメディア

良くアメリカのメディア変容の事例を引き合いに出し、「アメリカでは○○だから日本もこうなる」という話を耳にすることが多いですよね。でもアメリカに置けるメディア環境と日本のそれとを並列に考えて良いのでしょうか?そもそもアメリカでは全国紙と呼べる新聞はUSA TODAYくらいですし、テレビもスポーツチャンネルを除けば、原則ローカル局、ケーブルというもとで発達しています。日本のようにキー局があり、番組が全国でネットされ、全国同時に「バルス」なんてツイートできません。そもそもアメリカには国内で時差がありますしね(笑)そこらへんのことはメディア関係のお仕事をされている方々からすれば、自明の常識とも言えることかなと思います。

 日本と米国のメディア事情を単純に「同列に」扱うというのは、とんでもなく乱暴に感じます。日本の「マスメディア」と呼ばれる存在は、その社会に及ぼす影響も、同時間での情報波及効果においても、諸外国のそれとは異質の日本独自のものと想定して考えた方が良いのではないでしょうか?

そして、今回の「麻生発言」。ワタシは、今もネット上で拡散する内容を興味深く眺めています。多くは「マスメディアにより恣意的に発言を切り出され...云々」というものですが、これをみるとネットの世界の特殊性を見て取れます。凄く面白い。「麻生談話」という1次ソースに対して、ユーザーがそれぞれ独自の解釈を加えながら、常にマス媒体で報道された内容と比較し論じているのです。ほとんどのケース、マス報道を意識していない言説はないと言っていいくらいです。ここにも日本人とマスメディアとの関係性を見て取ることが出来ると思います。

 

  強烈な議題設定能力をもつマスメディアと瞬時の共有性をもつソーシャル

 

PRを学ぶと、このマスコミの「議題設定能力」というのを意識して、いろいろなメディアプランを考えるのですが、特に日本ではマスコミによる議題設定能力が強い文化にあると言えると思います。で、その力というのが個人の意見や考えを加味して瞬時に共有されるのがソーシャルメディアの特徴です。先の「接触時間」という考え方では、デバイスの普及であったり、使い勝手という点からスマートフォン、タブレットPCによるネット環境への接触時間が大きくなっていることは否めません。ただその接触しているときの生活者のEthnographyに注目してもいいと思います。

 つまり、各メディアに接触しているときの生活者の集中力であったり、メディア接触における意識を調査してみるというところです。この調査方法はどうしても量的部分(データ)での弱点はあるのですが、例えば先のデータで新聞への接触時間が減少しているとして、新聞から情報を得る生活者がどのような新聞の読み方をしているのか?ということを考察するのは非常に重要なマーケティングデータになりうるということです。

例えば新聞を読みながらスマホはいじれない。でもスマホをいじりながらでもテレビは見ることが出来る。

 とこれは根拠のない、自分自身の行動からの仮説ではありますが、もしこの仮説が是とされるなら、新聞というメディアは少ない時間で集中するメディアであり、集中されて接触されるがために、消費者にどのような効果があるのかということを考える必要が出てきます。テレビも然りです。

 何が言いたいかというと、メディアの接触時間そのものが比例して、そのメディアそのものの影響力であるというフェーズではないのではないか?ということなのです。

 

  まだ考察が必要な領域ではありますが・・・

今日はまだ考えが整理できていないので、なんとなくダラダラ書いてしまったのですが、接触時間の相違が必ずしも影響力と比例しないと言いつつも、一方で今までとは異なってきているということも事実であるとは感じています。

この点については、また考えがまとまったらとは思いますが、個人的にいろいろな方と議論してみたい領域のことでもあるのです。そして広告業界の1プランナーとしては、私たちを取り巻く環境とメディアの性格の変容がどのようになっていくかについて、真摯に考えていかなくてはならない時代になっているのは確かだと思います。

またまた予告

「バルス」祭とかあったので、メディアよりの内容でちょっとブログ書こうかなと思って、頭の中を整理しています~。

 

というわけで、次の書く内容はとりあえず「メディアリテラシー」みたいな内容・・・の予定。